感覚の目でよーく見る

昨日、RINSで友人らと一緒に、ノルウェーの謎の集団が作ったという映像作品を見た。
北欧の湖畔地帯の一年間を定点観測した作品だが、普通でないのはカメラそのものが動くという点である(つまり正確には定点観測ではない)。
昼と夜の移り変わりや、微妙な季節の変化が高速で映し出される中、カメラが湖畔の外周に沿って、浮遊するようにゆっくりと動き出す。しかもカメラワークは並行移動だけでなく直進したりパンしたり、加速したり止まったりして、その上恐ろしく滑らかに進む。
あっという間に過ぎる湖畔の一年と、ゆるやかで流麗なカメラワーク、二つの時間軸が同画面上に流れていく訳である。
一年間かけてコマ撮りした風景映像なんか今まで見たことなかったので、正直心を奪われる。
15年も前にそんなクレイジーなことやってた人達。ぞくぞくすんなあ。


今まで僕は、被写体を「どんな距離で見るか」あるいは「どんな角度で見るか」といった、視点を切り替える作業にこそ映像の面白さはあると思っていたけれど、この作品はそういった視点の問題を飛び越えて、鑑賞者自身に何か新しい目を与えることに成功している(かなり感覚的な言葉だけど、目は視点でもあり、視野でもあり、視差でもある)。
たとえば、形のある何かを接写して、それを映像の中でまったく別の物に見立てるというのは視点の切り替えがもたらす面白さだが、そういった作品を見た時、自分が何か特別の目を持ったという感覚はなかなか湧かない。
一方でこの作品の場合は、それが「鳥の目」か「神の目」かは分からないけど(グーニアはこれを「妖精の映像」と呼んでたけど、それはほんと言い得て妙かもしれない)、とにかく生身の人間が決して持ち得ない目を鑑賞者に与えている。


我々が「こんな目を持ちたい」と思ったことを映像は実現し、しかも今のところそれは映像にしか実現できないことのように思う。
視点ではなく目そのものを見る者に与える。
言葉にすると余計に曖昧だけど、何となくどきどきした。